強訳 -強引な翻訳-

英字新聞の見出しを一つ翻訳する日記

11月10日

動きに哲学が宿る。

そんなにたいそうなことが言いたいわけではなく、頭で考えた動きではなく何気なく動かしたその行動に哲学が現れるのではないかということ。
正面で話している人の顔をのぞき込む目、徳利からお酒を注ぎお猪口を口に運ぶ手あるいはそれを迎え入れる口、改札口を通り抜けホームに駆けていく足。
本人が考えずに自然と動いてしまっている部分にこそ哲学がある。

そんなことをふと考えながら珈琲豆の入った瓶を手に取った。
瓶を透かして見るとおおよそ一杯分くらいの珈琲豆が入っている。
蓋を取りじゃらじゃらっと珈琲豆を全部ミルに入れハンドルを回してガリガリと挽いた。
果たして今この珈琲豆を挽いている自分の手には哲学が宿っているのだろうか。
たしかにほとんど何も考えずに瓶から豆を取り出して挽いている。これは哲学か。
ヤカンからポットにお湯を入れ替え、カップやサーバーにもお湯を注ぐ。これもほとんど何も考えていないけど哲学があるのだろうか。
ペーパーの端っこを折り返しドリッパーに敷いて、そこに挽いた豆を入れる。
静かにお湯をクルクルと注ぐ。あぁ、ここだ。これは色々考えてやってしまっている。
初めにお湯を少し入れてしばらく蒸らすだとか、うまく膨むかとか、モコモコしてきたとか、顔が痒いとか。
たしかに老舗の純喫茶のマスターならそんなことも考えずにお湯を注ぎ入れそうだし、哲学もありそうだ。
なるほど、まだまだだな。
カップに入ったお湯を捨て珈琲を注いでゴクリと飲む。
これまた知ったような飲み方をしている。
意識しだすとトコトンだ。
考えるのをやめて新聞を見る。

The Japan Times
Japan has no plans to impose restrictions as COVID-19 casesrise
(日本は新型コロナの症例が増えても制限を課す予定はない)

何も考えてない行動にこそ哲学が現れるのだ。
明日は珈琲豆を買ってこよう。